「AIを使うと成績は上がるが知識は下がる」を、知力の低下と読んではいけない

AIコーディング教育の逆説について書かれた記事を読みました。The AI coding tutor paradox grows as educators scramble to rethink how they test real skills(the-decoder)です。

大学の教室の話ですが、私はこれを自分の話として読みました。私は非エンジニアで、AIエージェントに毎日実作業をさせて、自分用のツールやこのブログを作っています。つまり専門知を前提とする道具を、専門知をこれから身につけながら使っている側です。記事に出てくる学生と、構造的には同じ位置にいます。

結論から書きます。「AIを使うと成績は上がるが知識は下がる」というデータを「知力が低下した」と読むのは、ミスリードだと思います。 測れていないものがあるだけかもしれません。この記事では、そこから私が実際にたどった思考を、順番のまま置いていきます。最後は「理解だけでは足りない」という、自分にとって少し不都合な結論に着きます。

記事が言っていること

まず元記事の骨格です。中心にある逆説はこうです。ChatGPTやGitHub Copilotは、典型的なプログラミング課題を「平均的な学生並み」にこなせます。一方で教育側は、本当に身についたかを測る方法を作り直せていません。 だから学生は、習得したように見えて実際には学べていない可能性があります。

根拠として挙げられているのは、ACMのタスクフォースが行った教育者向けの調査(回答受付は2025年10月1日まで)と、いくつかの研究です。

ここで一つ、先に断っておきます。以下に書く数字は、元記事の要約ではなく原資料に当たって確認したものです。ただし、確認したのは私ではありません。 この記事の下書きは別のAIに事実関係をレビューさせる工程を通していて、そこで「原資料に当たれ」と指摘が入り、Claude Codeが原報告と研究ページを取得して数字を照合しました。結果として、元記事の要約のままでは書けない箇所がいくつも出てきました。

この話は、最後にもう一度します。

ACMの調査

まず母数です。ここが一番大事でした。回答は全体で763件ありますが、763名が全部の設問に答えたわけではありません。 3件は同意なし、48件はどの設問にも未回答、最初の設問に答えたのは198件だけ。残りの設問に答えたのは約500件で、設問によってはそれより少なくなります。

そのうえで、記事が挙げている4つの数字はこうです。

数字実際に測っているもの回答数
69%ソフトウェアを作るのに必要なスキルが変わったと考えている(「確実に」32%+「おそらく」37%)512
87%懸念として「課題をこなすための技術依存の増加」を選んだ(複数選択可・444件)510
64%何らかの授業変更を実施した(295名)469
68%評価方法を変更した459

64%のところは、この記事の初稿が読み違えていた場所です。「64%が、コードを書くことより読解とデバッグ寄りに授業を変えた」と書いていました。違いました。64%は「何かを変えた」であって、内容の内訳ではありません。 変更内容を自由記述で書いたのは243名で、そのテーマ分析では「コード読解の重視」が15件、「デバッグ・テストの重視」が17件です。母数の中では、決して主流という規模ではありません。

なお、国も同様です。「49カ国」は、国を答えた412名が49カ国に散っていたという話で、最多は米国(211)でした。

関連研究

記事が挙げている研究は3つで、いずれも一次資料に当たれました。

1. Anthropicの実験研究ページ

  • 対象は52名の、主にジュニアのソフトウェアエンジニアです。Pythonは週1回以上・1年以上使っていますが、課題で使う Trio(非同期プログラミングのライブラリ)は未経験でした
  • AI群はAIアシスタントを使い、対照群は手で書いて、Trioで2つの機能を実装しました
  • 理解度テストは課題の直後です。数分前に使った内容を問うものでした
  • 結果はAI群が平均50%、対照群が67%。差は約17ポイントです。差が最も大きかったのはデバッグに関する問題でした
  • 著者自身が、予備的(preliminary)な研究でサンプルも比較的小さいと述べています

つまりこれは「AIでPythonを学んだら半年後に知識が落ちていた」という話ではなく、「未経験のライブラリを使った直後の理解度」を測ったものです。記事の要約だけを読むと、そこがぼやけます。

2. 中国の中等教育の研究(CEPR Discussion Paper DP21577、Strömberg・Lei・Wu)

7〜12年生26,811名30か月のパネルデータです。学校ごとにAI導入の時期がずれることを使った差分の差分法で、9科目の月例試験・進学試験・宿題の指標を追っています。結果は、宿題の得点が18%上昇(所要時間は30%減少)月例試験の得点が6か月以内に20%低下進学試験は18〜24%低下(効果が出そろうのは約2年後)。損失は社会科系で最大、下級生・成績上位層でとくに大きい、とされています。

3. 成績インフレの研究(UC BerkeleyのCenter for Studies in Higher Education、ワーキングペーパー、Igor Chirikov)

2018〜2025年の50万件超の成績の分析です。AIの影響を受けやすい課題(ライティングとコーディング)を含む科目で、A評価の比率が13ポイント上昇しました(2022年の水準に対して約30%増)。宿題の比重が大きい科目ほど上昇幅が大きく、学習の改善ではなくAIによる代替を示唆する、としています。なお対象は「ある大規模研究大学」で、UC Berkeleyの成績だとは書かれていません(CSHEがUC Berkeleyの研究センターなので、混同しやすいところです)。

この3つ目と2つ目が、元記事の中心命題——成績は上がるが、知識は下がる——を支えています。私の話は、ここから始まります。

私が引っかかった一文

記事の中で私が止まったのは、報告書の筆頭著者であるSteven Gordon氏(オハイオ州立大学名誉教授)の言葉でした。目標は「プログラミングができ、かつAIの能力と限界の両方を理解している卒業生を出すこと」だ、という趣旨の一文です。

ここには前提が一つ埋まっている、と感じました。AIの能力と限界を理解していることが、AIとの共同作業のクオリティを直接上げるという前提です。

これは私の実感と合います。うまくいくときといかないときの差は、私の知識量よりも、「これはAIに任せていい種類の仕事か」を私が判断できているかどうかで決まっている感覚があります。だからこの一文は、教育目標というより作業品質の条件を述べているように読めました。

違和感: それは本当に「低下」なのか

そのうえで、記事の論調には引っかかりました。

「成績は上がるが知識テストは下がる」というデータを、そのまま「学生の知力が低下した」と読むのはミスリードだと思います。低下したのは、既存のテストで測れる範囲の点数です。 それが「その人の能力が下がった」ことと同じだとは限りません。

もう一つの可能性があります。現状の評価制度では測れない別の能力が育っている、という可能性です。

AIに何をどう頼むか。返ってきたものを見て、どこが怪しいかを見分けるか。方針そのものを変えるか。これらは実際にやると難易度に差があるのに、多くのテストはそこを見ていません。見ていない能力は、伸びても点数に出ません。

念のため書きますが、私は「知識は要らない」と言っているのではありません。育っているものがあるかもしれない、という仮説を置いているだけです。ただ、この仮説を検証する道具がないまま「低下」と結論するのは早いと思います。

提案: 過程を測る軸を、例外から本筋に上げる

ここから私の提案です。ただし、原報告を読んで一度書き直しました。

最初に私が書こうとしたのは、「既存の評価変更はどれも従来の測定値を守るための調整だから、まったく新しい軸が必要だ」という話でした。これは事実に合いませんでした。 原報告には、私が提案しようとしていたものが、すでに実践として載っていたのです。

授業をどう変えたかの自由記述(243名)で最も多かったテーマは、「AI利用を教える・促す」の39件でした。prompt engineering を明示的に教えることが、ここに含まれています。「AI出力の批判的評価を教える」も11件あります。

評価の側にもあります。変更内容を書いた276名のうち、「完成物より過程を重視」が19件、「AI利用の開示・記録」が16件、「コードレビュー・説明の要求」が15件。AI利用の開示・記録の説明には、プロンプトや対話ログの提出も含まれると書かれています。

私が「新設が必要だ」と思っていた方向は、もう誰かが試しているのです。

ただし、ここで数字の使い方に気をつける必要があります。「プロンプトを評価している人がすでに16名いる」とは言えません。 16件は「AI利用の開示・記録」という広いテーマの回答者数で、その全員がプロンプトを提出させ、さらにその質を評価しているとは、原報告のどこにも書かれていないからです。

言いたくなったが、言えなかったこと

一方で、評価の変更にはこういうテーマも並んでいます。

AIから切り離して測る方向件数
対面・監督付き試験の増加56
持ち帰り課題の比重を下げる38
紙ベースの評価35
技術的制限(IDEのAI無効化、ロックダウンブラウザ等)26
AI利用の検出・監視17
持ち帰り試験の廃止16

過程を測る方向が19・16・15なのに対して、こちらは56・38・35です。これを見て、私は一度こう書きました。**「教える側はAIに寄せ、測る側はAIを遠ざけている。同じ調査の中で2つの方向が逆を向いている」**と。

これも言えませんでした。

39件は243名の「授業変更」の自由記述から、56件は276名の「評価変更」の自由記述から拾われたテーマです。設問が違い、答えた人の集合も違い、テーマは排他的でもありません(一人が複数に該当します)。同じ教員が、授業ではAIの使い方を教えながら、習熟の確認には監督付き試験を使う——これはあり得ることで、矛盾でもありません。別々の設問のテーマの最大値を並べても、全体の重心が逆を向いているとは判定できないのです。

ついでに言えば、私が上の表に付けた見出しも便宜的なものです。原報告がこう分類しているわけではありませんし、「AI利用の検出・監視」は測る場所の話ですらありません。

だから、この調査から言えるのはここまでです。AIを取り入れる実践と、AIから切り離して測る実践が、どちらも存在している。 その先の「重心が逆を向いているのではないか」は、私の仮説にとどまります。確かめるには、テーマの重複や回答者の対応が追えるデータが要ります。

それでも提案は残ります

まったく新しい軸を発明するのではなく、すでに例外的に試されている「過程を測る軸」を、明示的で体系的な本筋の評価に上げること。 プロンプトの粒度、前提の与え方、失敗したときの立て直し方。同じ課題に対して書いたプロンプトと対話ログを提出させて、そこを見る。

根拠にしたいのは、件数の大小ではありません。原報告自身が示している状態のほうです。研修の要望を聞いた設問(n=428)では、315名(74%)が「GenAIを授業に組み込むベストプラクティスの研修が欲しい」を選んでいます。

実践はある。共有された型がない。 だとすれば、これは発明の問題ではなく、格上げと標準化の問題だと思います。

なぜここにこだわるかというと、やらなければ、これからもずっと「学生の知力が表面的に低下している」ように見え続けてしまうからです。測る軸を増やさない限り、記録に残るのは下がった点数だけです。それは実態の記述ではなく、計測器の限界の記述です。

掘り下げ: レビューする力は、そんなに新しいものか

ここで自分の議論に反論が来ました。

「AIの出力が真かどうかをレビューする力が求められる」というのは、よく言われる話です。私自身、上で「返ってきたものを見て、どこが怪しいかを見分ける」と書きました。

でも、これは従来求められてきた知能・専門性と本質的に変わらないのではないか、という問いが立ちます。

出力の正しさを判断するには、正しさを判断できるだけの知識が必要です。「これは動くコードか」「この前提は成り立つか」を見抜く力は、AIが登場する前から専門性そのものでした。つまり「AI時代の新しいスキル」として語られているレビュー能力の中身は、かなりの部分が昔ながらの専門知です。

Anthropicの実験で、差が最も大きかったのがデバッグの問題だったことも、この方向を示していると思います。壊れたものを直すには、中身が分かっている必要があります。

だとすると、私が上で立てた「測れていない別の能力が育っているのでは」という仮説は、少し弱くなります。育っている部分はあるにせよ、肝心のレビュー能力の土台は、結局その低下したとされる知識の側にあることになります。

パラドックス: 専門知を前提とする道具を、専門知をこれから得る人が使う

この矛盾を、はっきり書いておきます。

AIを適切に使うには専門知が必要です。ところが実際にAIを使っているのは、まさにその専門知をこれから身につける段階にいる人たちです。

これが「AIコーディング・チューターの逆説」の芯だと思います。前提として要求されるものを、まだ持っていない人が使う。だから成果物は基準に届き、内側は追いついていない。

そして繰り返しますが、私自身がこの位置にいます。私はAIエージェントに毎日作業させていますが、その出力の正しさを完全に判断できる専門知は持っていません。

それでも、「理解している」ことには価値がある

では諦めるのか。ここが私の答えです。

AIを使いこなす専門知は、AIを使うことでしか身につきません。しかし、盲目的に使うだけでは身につきません。 この2つは両方とも本当だと思います。使わなければ始まらないが、使い方によっては何も残らない。

そして私は、この構造を理解した上でAIを使うこと自体に、十分な価値があると考えています。

理由は単純です。理解しているかどうかで、同じ操作の意味が変わるからです。出力が通ったときに「終わった」とするか、「なぜ通ったのかは分かっていない」と自分に記録するか。この差は、その瞬間の成果物には一切現れません。

そして、この見立てと重なる所見が、先ほどの研究の中にありました。ただし、**重なるだけです。**証明ではありません。そこは正確に書きます。

Anthropicの実験では、著者たちが画面録画を見て、AIとのやりとりのパターンを分類しています。得点が高かったのは「生成してから理解する」(2名)「コードと説明を行き来する」(3名)「概念を問う」(7名)。低かったのは「丸投げする」(4名)「依存が進む」(4名)「AIとデバッグを繰り返す」(4名)でした。

ここで著者は、はっきり釘を刺しています。この定性分析は、やりとりのパターンと学習成果のあいだに因果関係を示すものではない、と。示しているのは「異なる成果と結びついた行動がある」というところまでです。人数もご覧のとおり一桁です。

もう少し規模の大きい材料もあります。中国の26,811名の研究です。ここには続きがあって、AI利用者の約8割が「宿題の所要時間が極端に短く、得点は高い」という外注型の行動を示していて、学習損失はそこに集中していました。宿題にかける時間が非利用者と変わらなかった層では、損失はわずかだったとされています。

これも「理解して使えば大丈夫」の証明ではありません。処置群の中を分けて見たら差があった、という関連です。それでも、規模も手法も違う2つの材料が、分かれ目は使う側にあるらしいという同じ方向を指しました。私が言えるのは、そこまでです。

そして、同じ材料は私に不利な事実も突きつけます。8割に外注と整合する行動が見られたのなら、点数の低下はやはり実際に起きている。この記事の前半で私が置いた「測れていない能力が育っているだけかもしれない」という仮説は、この数字の前ではかなり分が悪いのです。

しかし、理解だけでは足りない

ここで議論は終わりませんでした。自分で書いておいて、弱いと思ったからです。

「理解した上で使う」は、個人の内側の姿勢です。姿勢は、疲れているとき、締切が近いとき、うまくいっているときに、いちばん先に緩みます。私は現に緩ませたことがあります。動いたから良し、で先に進んだ回数を、正直に数えられません。

だから必要なのは両方です。

  • 内部(個人の意図的な姿勢) … 「これは分かって通したのか、通っただけなのか」を自分に問う習慣
  • 外部(仕組み) … 評価制度、レビュー体制、点検の手順。姿勢が緩んでも作動する側

そして外部の側には、姿勢を持たない人にも効くという性質があります。内部だけに頼る設計は、結局「意識の高い人だけが伸びる」制度になります。それは制度としては失敗です。

ここで話が最初に戻ります。教育側が評価方法を変えているのは、まさにこの外部の側を作る作業です。方向は合っています。私が付け加えたいのは、それを従来の測定値を守るための調整としてだけ設計すると、外部の仕組みが「AIを使わせない方向」に働いてしまうという点です。使うことでしか身につかないのに、使わせない方向の仕組みだけを作ると、内部と外部が逆を向きます。

だから軸の格上げが要る、というのが私の主張です。**プロンプトや対話ログのような、AIを使う過程そのものを見る軸。**それなら、外側の仕組みが内側の姿勢と同じ方向を向きます。

繰り返しますが、「教育の現場が実際にそう逆を向いている」と言っているのではありません。**そうなりうる、という懸念です。**原報告が示しているのは、両方の実践が存在していることと、広く共有された実証済みのモデルがまだ確立していないことです。試みは無数にあって、そのどれが効くのかが定まっていない段階。私が確かなことを言えるとは思っていません。

まとめ

  • 「AIで成績は上がるが知識は下がる」を「知力の低下」と読むのはミスリードだと思います。**測れていない能力があるだけかもしれません。**ただしこの仮説は、この記事の後半で自分でかなり弱めることになりました
  • 元記事の数字は、原資料に当たると意味が変わります。「64%が読解・デバッグ寄りに授業を変えた」ではなく「64%が何かを変えた」。Anthropicの17%も、未経験ライブラリを使った直後のテストで52名を対象にしたものです
  • AIの出力をレビューする力の中身は、かなりの部分が昔ながらの専門知です。だから「別の能力が育っている」という仮説だけに寄りかかることはできません
  • 逆説の芯は構造にあります。専門知を前提とする道具を、専門知をこれから身につける人が使っている
  • 専門知はAIを使うことでしか身につかないが、盲目的に使っても身につかない。**この構造を理解した上で使うこと自体に価値があります。**2つの研究が、分かれ目は使う側にあるらしいという同じ方向を指していました(ただしどちらも関連であって、因果ではありません)
  • しかし理解は個人の姿勢であり、緩みます。だから内部(姿勢)と外部(仕組み)の両輪が必要です
  • そして外部の仕組みは、すでに例外として試されている「過程を測る軸」を本筋に上げる方向で作られるべきだと思います。実践はある。共有された型がない

私は非エンジニアで、教育の専門家でもありません。ここに書いたのは制度への提言ではなく、同じ構造の中にいる当事者としての読み方です。

追記: この記事自身が実例になりました

最後に、この記事の作られ方について書いておきます。

この記事の初稿は、元記事の数字をそのまま使っていました。「64%が読解とデバッグ寄りに授業を変えた」「AIでPythonを学んだ開発者の知識が17%低い」——どちらも、原資料に当たれば成り立たない要約です。私はそれを確認せずに通そうとしました。

つまり私は、この記事を書く過程で、この記事に書いた限界をそのまま踏んでいます。元記事を読んで「AIの能力と限界を理解することが共同作業の質を上げる」と考え、「理解した上で使うことに価値がある」と書いた、その原稿で。AIの出力の真偽を、確かめていませんでした。

ここが自分でも意外だった点です。理解が足りなかったのではありません。理解はしていて、それでも行動が伴わなかったのです。

そして、捕まえたのは私の姿勢ではありませんでした。**工程です。**この記事の下書きは、別のAIに事実関係をレビューさせる手順を通しています。そこで「原資料に当たれ」と指摘が入り、Claude Codeが原報告を取得して数字を照合しました。上に並べた母数も、パターンごとの人数も、「因果関係は示していない」という著者の但し書きも、そこで初めて出てきたものです。

ここは正確に書いておきます。**原資料を開いたのは、私ではありません。**私がやったのは、そういう工程を先に組んでおいたことだけです。

そのことに、書き終わってから気づきました。私は「理解した上で使うことに価値がある」と主張し、その主張を、自分では一度も原資料を開かないまま書いていたわけです。内側が抜けて、外側が拾った。

内側の姿勢だけでは足りず、外側の仕組みも要る。その実例を、この記事は自分で作ってしまいました。当事者として言えるのは、そこまでです。